【イカ釣漁業】
イカは「烏賊魚」あるいは「柔魚」と書き、製造して乾燥されたものを鯣(するめ)と呼んだ。この鯣は昆布、勝栗と共に武将の出陣の縁起物となったり、貴族の酒席のつまみとして珍重された。近世初期にはイカ釣漁業は日本海、特に佐渡島より以南の地で発達していた。
蝦夷地では往古から近海に多く棲息していたが、これを釣る技術が分からず、これを本格的に漁獲することが出来なかった。松前廣長筆の『松前志』は天明元年(一七八一)刊行されたが、この中では「近年海人捕り得ることを得たり」としているので、この時代前後に漁獲方法を知り、この釣漁業が始まったものと考えられ、この技術は恐らく佐渡島から伝承したものと考えられる。しかし、漁業として成り立つ程の本格的漁業ではなかったと思われる。
津軽弘前の郷士平尾魯遷が安政四年(一八五七)松前に着いて、箱館へ向かう途中の村々を描いた『箱館紀行』の絵を見ると「礼髭村の部」のなかで、婦人が海岸の納屋にイカを干し鯣を製造している場面が描かれているところから、この年代頃にはイカ釣漁業と鯣の生産が本格化してきたことが考えられる。
明治初期の一ノ瀬長春筆『北海道漁業図譜』に吉岡村のイカ釣用具が描かれているが、その中にヤマテの絵があり、この天秤は鯨骨を用い、その下に二五〇匁の鉛を結び付け、その両側に餌を付けた釣針が仕掛けている。
また箱館、上磯、熊石、久遠方面ではこのヤマテの針は、針四分程のものを上向並列し、上部にイカを巻き付けた針を二組下げており、瀬棚方面では一尺の桐の木台の先に二本の竹を結び、その先に針を下げたものなど、その地域によって漁獲方法も様々に摸索していた時代であった。
この鯣の製造は、幕末箱館が開港され、長崎を介さない蝦夷地生産物を直接売捌さばきする箱館産物会所ができ、清国貿易の俵物類が箱館から積出すようになると、それまであまり着目されなかった鯣の需要が急に伸び松前藩は安政四年(一八五七)領内に「領内出産鯣は時相場を以て買上るに付き密売買を爲すべからず。漁業者出産物を引当に前金借入を出願する者は、会所より米穀又は金員を貸与すべし。且つ商売等鯣入用の者会所に出願するに於ては払下を爲すべき」旨を告示している。これは松前藩の収荷を一元的にその手に収めようと画策していたものと思われ、安政六年以降箱館産物会所の鯣取扱量は、同年一五万八、五四七斤(二万五、三六七貫余)であったが、三年後の文久三年(一八六三)には、鯣取扱量は三〇万五、二四六斤と量は倍以上に伸びている。
イカ釣の漁法は、磯舟または保津船で夕時出漁し、陸岸近い海でかがり火を焚いてイカを集め、それをヤマデ(山手)、またはハネゴで釣る。ヤマデは八尋ないし一〇尋位の深い海中のイカを釣る際に用い、ハネゴは一尋か二尋というごく浅い海に浮き上ったイカを釣る際に用いたが、この方法は昭和前期にまで継続されている。
-「福島町史通説編(上)」より抜粋-
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